(1) 第17章では、労働力の価値の大きさに様々な変化をもたらす多様な条件の組み合わせについてしっかりと見てきた。−この大きさの変化を絶対的にも相対的にも、剰余価値の大きさの絶対的・相対的な変化とも比較して見てきた。その一方、労働の価格が実現される生活手段の量は労働の価格の変化とは違ってあるいは独立して変動を繰り返す。*1
本文注 *1: 「賃金が増大された」(彼はここではそれらを貨幣表現で取り扱う)「と云っても、正確とは言えない。なぜならば、より安い品物を買うのだから。」(ディビット バチャナン版 アダム スミスの「国富論」1814年 第一巻417ページのノート)
(本文に戻る) すでに示されている様に、労働力の価値、それに対応する労働力の価格を俗論的な賃金形式への単純なる翻訳は、これらの全ての法則を賃金の変動の法則にすり替える。ある一国で、変化する各組み合わせの結果として現れるこれらの賃金の変動は、違う国においても国家賃金の同時期的な変化として現れる。異なる各国の賃金の比較に際しては、であるから、我々は、労働力の価値量の変化を決定する全ての要素を勘案しなければならない。主な生活必需品の、自然的かつ歴史的に形成されたそれらの価格やその幅、労働者の教育に掛かる費用、婦人や子供たちによって行われる労働部分、労働の生産性、その広がりの程度と強度の大きさ等々を。最も表面的な比較においてさえも、まず最初に、それぞれの異なる国の同様の産業における平均日賃金の補正、労働日の一様化が求められる。これらの補正を同じ日賃金に対して行った後に、時間賃金は再度出来高払い賃金に換算されねばならない。後者は生産性と労働の強度の両方に関する唯一の計量器とすることができるからである。
(2) あらゆる国にはある一定の平均的な労働強度があって、それ以下の強度の労働による商品の生産には社会的な必要時間以上の時間が必要となる。従って、そのような強度の労働は普通の労働品質としては認められない。ある与えられた国では国の平均を上回る強度の場合のみ、そしてその労働時間の長さに関してのみが価値の尺度に適う。個々の国々が全体の部分である世界市場においてはそうは行かない。平均的な労働強度は国々によって違う。こっちの国はより労働強度が高く、あっちの国ではより低い。これらの各国の平均が基準を作り出す。その計量単位が全世界労働の平均単位となる。従って、より強度の高い国の労働は、より低い強度の国と較べれば、同じ時間でより大きな価値を生産する。すなわち、それ自身がより大きな貨幣額を表す。
(3) しかし、価値法則の国際的な場での適用には、以下の事実によってなお一層修正される。世界市場においては、より生産的な国の労働はまたより強度の高い労働と見なされる。より生産的な国がその商品の売値を競争によってそれらの価値のレベルまで下げさせられることを強いられない限りにおいては、強度の高い労働と見なされる。
(4) ある国の資本主義的生産が発展させられるのに比例して、そこでの労働の国家的な強度や生産性も同様の比率で発展させられ、国際的なレベル以上に高まる。*2
本文注 *2: 我々は、生産性との関連において、いかなる状況が、工業の個々の支部に係るこの法則を修正するのかどうか、いずれ他のところで、検討することにしたい。
(本文に戻る) 同じ労働時間において、各国で生産される同種商品の異なる量は、それゆえ、国際的には不等価な国際価値を有する。それらはそれぞれ違った価格で表される。国際的な価値に応じた様々な貨幣額で表される。貨幣の相対的価値は、従って、資本主義的生産様式が発展させられた国では、発展の低い国に較べてより小さなものとなる。かくして,以下のように云うことができる。貨幣額で表現される労働力の等価である名目賃金は、同様、第一の国では第二の国よりも高いものとなるであろう。とはいえ、このことは、同様、両国労働者が購入できる生活必需品を表す実質賃金を意味すると、証明しているわけでは全くない。
(5) しかし、各異なる国の貨幣価値の相対的な差は別にして、次のことは頻繁に発見されることであろう。日賃金、または週賃金、その他の賃金では第一の国では第二の国よりも高い。その一方、労働の相対的価格、すなわち、剰余価値や生産物の価値のいずれとも比較しての労働の価格は第二の国の方が第一の国よりも高くなっている。と、発見されることであろう。*3
本文注 *3: ジェームス アンダスンは、アダム スミスに対する反論でこう述べている。「同様に、注意に値することは、通常貧しい国の外見上の労働価格はより低く、土地の生産物も穀物も一般的に安いにもかかわらず、依然として、事実は、貧しい国の多くの地域では他の国よりも実際には高いのである。なぜならば、そこの労働者に与えられる日賃金は実際の労働の価格を構成するものではないからである。それはその外見上の価格なのである。実際の労働の価格は、現実に実行された労働の一定量に対して雇用主が支払う価格であって、その点から見れば、ほとんどの場合、穀物やその他の食料が通常貧乏な国では裕福な国よりもかなり安いにもかかわらず、労働は裕福な国では、貧乏な国よりも安い。日単位で量られる労働はスコットランドではイングランドよりもかなり安く、出来高による労働は一般にイングランドの方が安い。」(ジェームス アンダスン 「国の産業精神を鼓舞する方法に関する観察所見」他 エディンバラ 1777年 350、 351ページ) これとは逆に、賃金の安いことが、その結果として、労働の高価を生み出す。「労働がアイルランドではイングランドよりも高くなる。…. なぜならば、賃金が非常に低いからである。」(鉄道に関する臨席委員会 覚書 No.2079 1867年)
(訳者注: この本文注*3は、労働の価格が資本主義の発達の度合が低い第二の国の方がより発達した第一の国よりも高くなっていることに関して付けられた注なのである。が、直ぐに意味を把握することが難しいだろう。原典が、剰余価値概念がないブルジョワ経済学者の論述のためで、資本家の立場から読まないと分からない。賃金を賃金、労働を儲け、として読む代物だからである。それでも労働の価格の差を感知しており、本文の注の役割を見事に務めさせられている。)
(6) 1833年の工場調査委員会のメンバーであるJ. W. コウエルは、紡績業に関する注意深い調査の後で、次のような結論に到達した。
(7) 「英国では、ヨーロッパ大陸と較べて、賃金は実質的に資本家にとっては低いものであるが、労働者としては高い。」*4
本文注 *4 (ユア 前出論文 314ページ)
(8) 英国の工場査察官 アレキサンダー レッドグレーブは、1866年10月31日の彼の報告書で、大陸各国との統計比較によって次のことを証明している。大陸の労働者は英国より安い賃金と長い労働時間にもかかわらず、生産物との比率で見れば、その賃金は英国よりも高い。と。オルデンブルク(訳者挿入: ドイツ領)の綿工場の、ある英国人マネージャーは、こう述べている。そこの労働時間は朝5時半から夕方8時までで、土曜日も同じ。そしてそこの労働者は英国人監督の元でも英国の10時間に較べてもそれだけの生産物を供給せず、ドイツ人監督の場合はもっと少ない。賃金は英国と較べてかなり低い、多くの場合は50%、機械当たりでは、労働者数はより多く、ある部門での比率は5:3 である。
(9) レッドグレーブ氏はロシアの綿工場に関して非常に詳細な事柄を提供している。そこに最近まで雇われた英国人マネージャーから彼に与えられたデータである。ロシアなる土地は、あらゆる醜悪なる果実に溢れ、英国の工場初期の満開期にあったような古き恐怖に溢れていた。マネージャー達は、勿論英国人。なぜならば、土着のロシア資本家は工場商売には何の役にも立たないからだ。昼夜なしの過重労働にもかかわらず、労働者の賃金は恥知らずもいいところの安さにもかかわらず、ロシアの製造業者は外国の競合品を排除することでなんとかかろうじてやっていける程度であった。
(10) 私は、その結論として、レッドグレーブ氏の、ヨーロッパの様々な国の工場当たりの平均紡錘数と紡績工当たりの平均紡錘数の比較表を示す。彼自身、彼が集めたこれらの数字は二三年前のもので、その後、英国では工場の大きさや労働者当たりの紡錘数が増大していることを注記している。とはいえ、彼はこれらの大陸各国にも大凡同じような進歩があると見れば、これらの数字は依然として比較するだけの価値を与えているであろうと想定している。
各国の工場当たりの平均紡錘数 [単位 本] | 各国比 |
---|
英国 | 12,600 | 1.00 |
スイス | 8,000 | 0.63 |
オーストリア | 7,000 | 0.56 |
ザクセン | 4,500 | 0.36 |
ベルギー | 4,000 | 0.32 |
フランス | 1,500 | 0.12 |
プロイセン | 1,500 | 0.12 |
(訳者注: 右端列の各国比は、訳者が参考として計算し挿入したもの。原典にはありません。なお、英国はグレートブリテンに北アイルランドを含んだ名称です。)
各国の紡績工当たりの平均紡錘数 [単位 本] | 各国比 |
---|
グレートブリテン | 74 | 1.00 |
スイス | 55 | 0.74 |
ドイツ小州群 | 55 | 0.74 |
ザクセン | 50 | 0.68 |
ベルギー | 50 | 0.68 |
オーストリア | 49 | 0.66 |
バイエルン | 46 | 0.62 |
プロイセン | 37 | 0.50 |
ロシア | 28 | 0.38 |
フランス | 14 | 0.19 |
(訳者注: 各国比は、訳者が挿入したもの)
(11) 「この比較表は」とレッドグレーブ氏云う。「依然としてグレートブリテンにとっては不利なものとなっている。そこには紡績と一体で機械織りも行っている大きな工場がある。」(つまりこの表では織り工の人数を差し引いていない。)「そして他国の工場は主として紡績工場なのである。同じものを同じものとして比較することができるならば、その一つを取り上げるならば、我が地区には多くの紡績工場があり、そこでは一人の男子工(監督)と二人の助手だけで、2,200本の紡錘を取り扱う。日220重量ポンドの紡糸を紡ぎ、その長さは400マイルに達する。*5
本文注 *5 (工場査察報告書 1866年10月31日 31-37ページのあちこちに)
(12) 英国の会社が、東ヨーロッパやアジアで、鉄道建設を請け負い、それを作るに当っては、現地の労働者の雇用と、それに応じてある一定数の英国労働者を雇用することはよく知られている。実際にその必要性があるからでもあるが、彼等は労働の強度の国的な違いをなんとかしたいと考えてのことなのであるが、結果的には何の損分をももたらさなかった。彼等の経験が示すところは、たとえ賃金の高さが多少なりとも労働の平均強度に応じて決まるものとはいえ、労働の相対的価格は一般に労働の強度とは逆の方向に変化すると云うことである。
(13) H. ケアリーは、彼の最初の経済学的な著述「賃金率に関する評論」*6
本文注 *6「賃金率に関する評論 全世界の労働人口の状況に於ける違いの原因の調査を含む」フィラデルフィア 1835年
(本文に戻る) において、あらゆるところの賃金は労働の生産性に比例して上下すると言う結論を国際的な関係から引き出すために、各国の賃金は、国ごとの労働日の生産性の度合に直接的に比例していることを証明しようと試みる。我々の剰余価値の生産に関する分析は、この結論の馬鹿らしさを明示している。たとえケアリーがいつもの批判的考察なしの皮相的な方法で混沌たる統計材料のあれこれ並べ替えた後に、それとは違う彼の前提を証明したとしても、どうにかなるものではない。この著述の最良の核心は、現実の事柄が彼の理論に従って存在していると主張していない点である。また国家的な介入は自然な経済関係を偽装する。各国の賃金は、であるから、その一部は税金の形で国家に帰属するとしても、労働者その人に帰属するものとして認識されねばならない。ケアリー氏は、そのような「国家経費」が資本主義的発展の「自然」の果実ではないかどうかなどと、さらに考慮する必要はなかったのではないか?資本主義的生産関係は自然と理性の永遠の法則であると最初に宣言し、その自由で調和溢れる労働が唯一国家の介入によって乱されるなどと云ったあとで、世界市場における英国の不快な影響(出現した影響は資本主義的生産の自然法則から飛び出したものではない)が、国家の介入を必要とする、すなわちそれらの自然と理性の法則を国家によって保護する必要、別名で云えば保護シテスムが必要と云うような人物にとっての全くご立派な理屈である。さらに彼は、社会的な対立や矛盾についても論及されているリカード派の定理は、現実の経済的運動の観念的産物ではなく、それとは全く逆に、現実の英国他の資本主義的生産に対する対立がリカード他の定理の結果であることを発見する! そして最終的に、彼は、結局のところ、生産の資本主義的様式なる先天的な美と調和を破壊するものは商業であることを発見する。もう一歩進めば、彼は、多分、資本主義的生産の中にあるただ一つの害悪は資本そのものであることを発見するであろう。この恐るべき批判能力を欠いた、この見せ掛けばかりの博識故に、異端の保護貿易主義者にもかかわらず、この人物が、バスティアやその他の今日の自由商売楽観主義者の調和的見解の秘密の源泉になり得たのである。
場違い訳者余談を追加させてもらう。 本文(1)の 異なる各国の賃金の比較に際しては、労働力の価値量の変化を決定する全ての要素を勘案しなければならない。主な生活必需品の、自然的かつ歴史的に形成されたそれらの価格やその幅、労働者の教育に掛かる費用、婦人や子供たちによって行われる労働部分、労働の生産性、その広がりの程度と強度の大きさ等々を。と書かれた部分に全てが集約されているのではあるが、あえて最近の状況を付け加えたい。アメリカ資本主義がグローバルに発達した結果として、その自由商売の世界化に取り組むことは自然と理性の作用としてではなく、資本の強欲の尽きない法則の作用として当然のことである。 新ケアリー氏がどのように再登場し、また新バスティア他がどのように云うのかは関知しないが、日本政府は、年内にはTPPを妥結すると宣言する。日本資本のグローバル化がアメリカグローバル資本にすでに組み込まれている状況では、当然のことである。だが、資本の占暴の行き着くところは、資本の剰余価値独占の行き着くところは、資本と云う存在そのものの害悪を極める事であり、世界的な対立となって、その害悪を除去する階級的な闘争を経て、資本の存在を否定的に解消することになる他の世界はありえない。
この章は世界の賃金格差が資本主義的生産の発展段階の違い故に存在することを示すのみではなく、生産性の差のみによるものとする空論を排し、経済成長率とかナントカミクスとかなどは出る幕もなく、資本そのものの性質が賃金を決めていることをはっきりと示している。海外生産拠点に賃金格差が存在するが故に資本が海外に逃げるのではなく、そうした格差そのものを直接的に利用するからであり、世界狭しと、資本がそのように動き回り、反対する者をテロ呼ばわりして、圧殺する。反対する者たちの諸対立をも利用して、資本の自由商売グローバル化を一層進める。シリア、エジプト、イスラエルの現況も、世界TPPシステムの進展の一環として見れば、その激動の姿が見えてくる。矛盾の一層の集積こそ、商品の集積・資本の集積の結果である。もう一歩のケアリーもまたそこに多数見出されることになるであろう。
[第二十二章 終り]